カテゴリ
以前の記事
2008年 04月 2008年 03月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 2005年 02月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 10月 2004年 09月 2004年 08月 フォロー中のブログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2005年 09月 23日
高山宏さんのエッセイ集『殺す・集める・読む――推理小説特殊講義』(創元ライブラリ)に、次の一節をみつけた。
誰かが誰かを殺すこと――推理小説が始まるためには、まず誰かが死ぬことが必要である。当たりまえのこと、と言われるかもしれない。しかし、当たりまえのことを当たりまえのこととしないで、いろいろ考えてみることで、特にこの推理小説という特殊世紀末的な文学の知られぬ異貌は見えてくる。推理小説の大前提とも言うべきこのコンヴェンション(約束事)を口実にして、世紀末の死の美学こそが見事な開花を見ているのがホームズのシリーズと言えるのではあるまいか…… 死の意識との対決ということで要約される世紀末美学のコンテクストの中で見るなら、死が必須の大前提である推理小説という、考えるほどに摩訶不思議なジャンルは、死の美学を最も直截に、ある意味では最もイージーに盛り込むことができる、まさにうってつけの世界であった(15-16)推理小説というのは、いったいなんで人を殺すのかなあ、と以前から思っていた(約1年前、このブログを始めたばかりの頃にもそんなことを書いた)のだけど、こういうふうに言われてみると、ちょっと納得する。「死の意識との対決」が19世紀末の一大テーマで、それを盛り込むのに便利なジャンルとして推理小説という形式が選ばれたのだということだ。たぶん現在の推理小説は少し違うのだろうけど。
by wayakutaro
| 2005-09-23 14:29
|
ファン申請 |
||