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2004年 10月 31日
1984年、日本でポスト・モダニズムまたはニュー・アカデミズムが大流行していたころ、柄谷行人氏は、「われわれはポスト・モダンであろうとするほかにモダンでありえず、モダンであろうとするほかにポスト・モダンでありえないというパラドックスを強いられているのだ」と書き、このパラドックスは、誰もが理論的に理解しえたものであり、にもかかわらずこのパラドックスを生きられた例はまれである、と指摘した(『批評とポスト・モダン』福武文庫 23)。
ソシュールはこのパラドックスを生きた人、言語学を作り同時にそれを壊す(とまではいかないので、矛盾に追いこむ)という作業をやった人、ということになるだろうか。仮りにそうだとすると、そのパラドックスを解消したところにはソシュールはいないことになる。構造主義の元祖としてのソシュールは、たぶん、そういうパラドックスの抜けた体系家としてのソシュールなのだろうと思う。 ここで、そのパラドックスを解消しないでおいて、つまり言語学ではなく言語学批判としてしか存在しないソシュールに、どう対処したらいいかということが問題になる。柄谷氏は「批評」という独特な考えを出している。 《批評》は、方法や理論ではなく、一つのシステム(言説空間)に属すると同時に属さない、矛盾にみちた危うい在り方のようなものだ、といってもいい。だが、これは“はぐらかし”とは似て非なるものだ。というのは、それは当人の身を引き裂かずにはいないからである(20-21)。 つまりこのパラドックスを生きるということなのだが、これは具体的にはいったい何を意味するだろうか(小林秀雄のような終わりかた)。
by wayakutaro
| 2004-10-31 17:21
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