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2004年 10月 09日
来週半ばまでに論文を50枚にしないといけない。アウトラインの組み替えに、いままで書いたところの修正に、もちろん書き足しもかなり必要で、ラフマニノフのピアノを聴いている場合ではなくなった。どうもラフマニノフのピアノはとろとろしていけない。こういうときにはやはりベートーヴェンやワーグナーが必要なのだ。(いやそもそも音楽聴いててはいけないのか?)
さっきカードを見返していて発見した、ロシアの構造主義者ローマン・ヤコブソンの「言語学と詩学」(『一般言語学』田村すゞ子ほか訳。みすず書房)にある、その筋では有名なことばについて、ちょっと考えてみたいと思う。 隣接性に相似性が重ねられたものとしての詩においては、換喩はすべていくらか隠喩的であり、隠喩はすべていくらか換喩的色彩を帯びている。(211) たしかにこれは本当だ。文学作品における古典的な隠喩は、もはや隣接性として感じられるから。たとえば「君の瞳は僕を導く星の光」(などといまごろ言う人は気持ち悪がられるだろう)といえば、これは形式としては隠喩と呼ぶしかない。しかし少しも隠喩らしくない。つまり破壊性または意味産出性に欠けている。しかしそれは、この例えが習慣的になってしまったからだろうか。たしかにインパクトのある表現でも、繰り返されると飽きてくる。詩人が新しい比喩をつくるのはつねに古くなってしまう言葉に、一瞬新しい関係を作り出すということになるのだろうか。しかしこう解釈してしまうと、ヤコブソンの言っていることからずれてしまっている気がする。ヤコブソンはもっと純粋に形式的に言っているように聞こえるのだが。 ところでこの言葉を論文のどこかで使ってみたい。
by wayakutaro
| 2004-10-09 02:28
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